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ナショナル・ギャラリー()は、イギリスのロンドン、トラファルガー広場に位置する美術館。1824年に設立され、13世紀半ばから1900年までの作品2,300点以上を所蔵している。登録適用除外チャリティ (:en:exempt charity) の一つで、文化・メディア・スポーツ省 (:en:Department for Culture, Media and Sport) の非省公共団体 (非政府部門公共機構) (non-departmental public body) である。そのコレクションは大衆に広く公開されており、特別な企画展示をのぞいて入館は無料となっている。ただし、維持管理費用の一部を寄付でまかなうため、Donation(寄付)を募る箱が入り口ほか数カ所に設けられている。 ナショナル・ギャラリーは、コレクションの基礎が王室や貴族のコレクションの由来ではないという点で、ヨーロッパでもあまり例のない美術館となっている。コレクションの基礎となったのは、保険ブローカーで美術後援家だったジョン・ジュリアス・アンガースタイン (:en:John Julius Angerstein) が収集していた38点の絵画である。初期のコレクションは個人からの寄付によって、チャールズ・ロック・イーストレイク (:en:Charles Lock Eastlake) をはじめ、その当時の館長たちが購入したものが3分の2を占めている。その結果、他のヨーロッパ諸国の国立美術館と比べてコレクション数は多くはないが、西洋絵画が大きな革新を見せた「ジョットからセザンヌまで〔Chilvers, Ian (2003). ''The Concise Oxford Dictionary of Art and Artists''. Oxford Oxford University Press, p. 413. The formula was used by Michael Levey, later the Gallery's eleventh director, for the title of a popular survey of European painting: Levey, Michael (1972). ''From Giotto to Cézanne: A Concise History of Painting''. London: Thames and Hudson〕」美術史上重要な絵画が収蔵されている。常設展示されているコレクションが少ないとされたときもあったが、現在ではそのようなことはなくなっている。 現在の建物は3代目のもので、1832年から1838年にかけて建築家ウィリアム・ウィルキンス (:en:William Wilkins (architect)) がデザインした。その後ナショナル・ギャラリーは少しずつ拡張されていったため、現在ではトラファルガー広場に面するファサードだけが唯一当時の面影を残している。ウィルキンスのデザインにしたがって建設された当時の建物は、美的センスに欠けている、手狭であると酷評されたこともあった。事実建物が手狭で収蔵に限界があったため、1897年にイギリス美術専用の分館ナショナル・ギャラリー・オブ・ブリティッシュ・アート(現在のテート・ブリテン)が開設されている。1991年に西側に増築されたロバート・ヴェンチューリとデニス・スコット・ブラウン (:en:Denise Scott Brown) の設計によるセインズベリー棟はイギリスを代表するポストモダン建築となっている。 == 歴史 == === 設立までの経緯 === 18世紀後半のヨーロッパでは美術品の王室、貴族コレクションの国有化が進んでいた。現在のアルテ・ピナコテークの基礎となったバイエルン王室コレクションは1779年に、ウフィツィ美術館の基礎となったフィレンツェのメディチ家の歴代コレクションは1789年ごろに一般公開されている。フランス王室コレクションも1793年に一般公開されルーブル美術館として現在に至っている。しかしながら当時のグレートブリテン王国ではヨーロッパ大陸におけるこのような潮流とは無関係であり、現在でもイギリスの王室コレクションは王室の私的所有物となっている。1777年にイギリス政府は、世界的な評価が高かったコレクションを購入する機会を得た。イギリス初代首相を務めたロバート・ウォルポールの子孫がウォルポールの美術コレクションを売りに出したのである。当時のイギリス市長で庶民院議員ジョン・ウィルクスはイギリス政府に、この「貴重な宝物」を購入するよう強く求め「大英博物館の広大な庭園に気品あふれるギャラリーを建てて」収蔵することを提案した〔 〕。しかしウィルクスの主張は通ることなく、ウォルポールのコレクションは20年後にロシア女帝エカチェリーナ2世が全て購入し、現在はエルミタージュ美術館に収蔵されている。 1798年に、オルレアン公フィリップ2世の美術コレクションだったオルレアン・コレクションがロンドンに持ち込まれ、国王ジョージ3世も首相小ピットも購入に興味を示したが、結局このときも美術品の購入は実現しなかった。ただし、現在のナショナル・ギャラリーには所蔵品番号「NG1」の『ラザロの蘇生』など、様々な方法で集められたオルレアン・コレクション由来の作品が25点収蔵されている。1799年には画商のノエル・デザンファンからイギリス政府に既存の絵画コレクション売却の打診があった。もともとはデザンファンと共同経営者だったスイス系イギリス人画家フランシス・ブルジョワ (:en:Francis Bourgeois) がポーランド国王スタニスワフ2世アウグストのためにそろえたものだったが、1795年に第3次ポーランド分割が行われ、国家自体が消滅してしまったために引き取り手がいなかったコレクションである〔。しかしながらこの打診は拒否され、結局このコレクションはブルジョワが死去する際に自身の母校ダリッジ・カレッジに遺贈した。このコレクションはイギリスで最初の公立美術館として1814年に開設されたダリッジ・ピクチャー・ギャラリーの前身となっている。1803年にスコットランド人画商ウィリアム・ブキャナンと美術収集家ヨーゼフ・カウント・トゥルホゼスが、それぞれ美術コレクションの購入を打診し、どちらも拒否されているが、後にこれらのコレクションはナショナル・ギャラリーの主要なコレクションとして所蔵されている〔。 ウォルポールの美術コレクション売却話の後、ジェームズ・バリー (:en:James Barry (painter))やジョン・フラクスマン (:en:John Flaxman) など多くの芸術家たちが、イギリス絵画が発展するためには他のヨーロッパ諸国の優れた絵画と接する機会が不可欠であるとして、イギリスでの国立美術館の創設を求めた。1805年に貴族階級の美術愛好家たちによって英国美術振興協会 (British Institution for Promoting the Fine Arts in the United Kingdom) が設立されている。この協会のメンバーは所持していた絵画を、美術学校の夏季休暇時に展示会を開催するために年一回貸与し、芸術家たちが絵画に接する場を提供した。しかしながら貸与された絵画には二流以下の作品も多く〔Fullerton, Peter (1979). ''Some aspects of the early years of the British Institution for Promoting the Fine Arts in the United Kingdom 1805–1825''. MA dissertation, Courtauld Institute of Art., p. 37〕、英国美術振興協会を不快に感じ、協会のメンバーたちが所有するオールド・マスターの絵画の売却価格を吊り上げる、詐欺まがいの展示会ではないかと考える芸術家もいた。しかし、英国美術振興協会の創設メンバーの一人準男爵ジョージ・ボーモント (:en:Sir George Beaumont, 7th Baronet) のように、自身が所有する16点の絵画の寄贈を申し出て、ナショナル・ギャラリーの創設に大きな役割を果たした人物もいる。 1823年には死去したばかりのロシアからロンドンに亡命してきた銀行家ジョン・ジュリアス・アンガースタインが生前収集していた著名なコレクションが市場に出た。このコレクションは38点の絵画で、ラファエロの作品やホガースの『当世風の結婚』シリーズなどが含まれていた。1823年7月1日にホイッグ党の政治家で後に初代ドーヴァー男爵を受爵するジョージ・エイガー=エリス (:en:George Agar-Ellis, 1st Baron Dover) が庶民院でこのコレクションを購入する提案を出した。この提案はボーモントの絵画寄贈の申し出によって弾みがつき、政府によるアンガースタインのコレクション購入と、このコレクションを収蔵するのに相応しい建物の建設が議論された。最終的にはオーストリアからの予期せぬ戦時公債の返済があったことによって、イギリス政府はアンガースタインのコレクションを57,000ポンドで購入することを決定した。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ナショナル・ギャラリー (ロンドン)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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